アンダマン&ニコバル諸島にて

ユルユルと連載していくつもりだったのですが、思いのほかSNSで反響があったので、早速続きを書いて行きたいと思います。

日本のテレビから、ほぼインドのドキュメンタリーが消えることになった事件・・・

その前に、当時のインドにおけるテレビ取材事情を説明しておかないと、訳がわからないことになってしまうので、まずは事件の背景から説明します。

当時インド亜大陸の政情は不安定で、特に印パ中の関係は「準戦時下」にあったようなものだったため、外国人取材班によるインドでのドキュメンタリー撮影には様々な制約がありました。特に取材班を悩ませたものとしては、

・インド国内の取材に関しては、事前に関係省庁から取材許可を取ること

・取材中は政府派遣の連絡官が常に付き添い、ルールの順守を監視するその権限は絶対である

・国益となるような描写を心掛け、ネガティブな描写は行わないこと

・放映前に必ず在外公館(日本の場合は、東京のインド大使館)で検閲を受け、指導が入った部分は適宜削除修正すること

というものがありました。

特に4つ目の検閲に関しては、表現の自由が約束され、番組編集が終わるのは放映日ギリギリ、という日本のメディアには受け入れがたいものであり、私も何度トラブルに遭遇・その火消しに奔走したかわからないほどでした。

例えばどんなトラブルがあったかと言えば、

(トラブル例1)インドには、大規模な「船の解体場」があるのですが、番組タイトルの中で、それを「船の『墓場』」と表現→『墓場』とは何たるネガティブなタイトル!タイトルを変更しない限り放映は禁止!と騒動になり、火消しに奔走。

(トラブル例2)風景描写のところで橋が映る→橋や駅、鉄道などは軍事施設と同等にみなされ、取材禁止ということで削除を求められる

(トラブル例3)番組中で、場所の紹介で使用したインドの略地図(国境線のみの略地図)の形が微妙に違う。インド領であるべきところがパキスタン領になっていると、大使館激怒→放映ギリギリでCGやテロップ等の差し替えが発生し、すったもんだの騒動に。

その他、番組のキーとなる場面の差し替えや内容変更等の指導が入ることも多々。局と大使館の板挟みとなり、何度身の細る(→実際は細くならなかったけど:爆)思いをしたことか・・・。

制限地域の取材許可取得のために何度も渡印し交渉に交渉を重ね、1~2年をかけて取材許可を取得する、というのも大変でしたが、それよりもこの検閲が一番タフだったように思います。

インド北東部の辺境に住むナガ族の人々と共に。ナガランドでは世界初取材を実現し、その番組はギャラクシー賞を受賞。この写真を撮った数時間後帰路の山道で土砂崩れに遭い、連続する土砂崩れと土砂降りの中、暗い崖を歩くというサバイバル体験に遭遇するのでした。

そんな背景の中で、私の最大のクライアントが、検閲問題を巡って大使館と決裂。

おりしもバブルも崩壊し、格安な製作費で高い視聴率が取れるクイズやバラエティにスポンサーを取られ、民放のドキュメンタリーが激減していた時期でもありました。

そこに更に追い打ちとなるこの事件・・・そして、「●●●(→私の最大のクライアント)はもうインドはやらないらしいよ」という内々の情報が囁かれ始めました。

さあ、困った・・・。

元々番組コーディネーターというのは、その国に住んでいる日本人がほとんど。その国に住んでいる人間を使った方が、交通費や宿泊費もかからない。そんな中で、日本に住む私がインド・パキスタン・ネパールといった国々で活躍できたのは、当時現地に住んでいた日本人が限られ、且つ、インドの辺境地での番組コーディネートのノウハウを持っている人がいなかったこと、ヒマラヤ登山家だった父が、現地の軍や国境警備隊・登山協会等の要人と堅いコネを持っており、取材許可取得のプロセスで、最大限その要人たちのコネを利用できたことにあったのです。

その頃、パキスタンも911事件で当面ニュース以外の取材も難しくなり、ネパールもマオイストによる外国人襲撃が頻発しはじめ、取材班を送れるような状態ではなくなっていました。

もうインド亜大陸ではやっていけない・・・さてどうする・・・

(つづく)

2 thoughts on “フォークランドがライフワークになった訳(2)”

    1. おお!よかったね。接種の感想また聞かせてね。
      昔痩せてた頃はスカートもはいたよ~(*^^*)

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